金子吉晴(維新政党新風)    行動保守の選挙担当として維新政党・新風に籍を置き真の戦後レジームからの脱却に邁進しています。

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"「日韓併合当日、喜んだ朝鮮人が多かったという記録がある。教科書に書いてあるのと違うが…」" 南朝鮮がこういう事実を認めることから日韓関係の正常化は始まる!!

 2007年8月28日の韓国日報(朝鮮語)は,”「日韓併合当日、喜んだ朝鮮人が多かったという記録がある。教科書に書いてあるのと違うが…」
 1910年8月22日、大韓帝国純宗皇帝が臨席した形式的な御前会議で、総理大臣李完用は朝鮮と日本の強制併合案を可決させた。日帝はこの事実を1週間も極秘にしておき、8月29日に純宗皇帝の玉璽を捺印させて併合条約を布告した。
 庚戌の年に起きた恥辱ということで「庚戌国恥」と呼ばれる。97年前のことだ。
 今まで、教科書でそう学んだ。このため、当時の全朝鮮人が当然に悲痛な思いで嘆いたと思っていた。ところが、必ずしもそうではなかったようだ。
 3・1万歳義挙の際に民族代表33人中の1人として活動し、後に主張を変えた崔麟は、韓日併合が公布されたその日の鐘路通り(訳注:京城の中心街)の朝鮮人らはまるで「何事も無かったかのように」賑やかに商売をしたり飲食する「日常」を失わなかった、と述べている。
 しかし、崔麟の記録を裏付ける主張がいくつも出ている。中国の知識人である梁啓超は、1910年9月に書いた文章の中で、合併条約発表をめぐって周辺国の人々は彼らのために涙を堪えられないのに、当の朝鮮人たちは楽しそうにしており、高位の官吏らは毎日、新時代での栄爵を得ようと嬉々として奔走するだけだった、と主張している。
 信じがたい言葉だ。ただ、当時の朝鮮人たちが「日常」を失わなかったという点は納得せねばならないようだ。実際、8月29日当日は意外に平穏で、反対デモも全く無かったという。
 当時の朝鮮民衆は既に諦めの知恵を持っていたのかもしれない。
(康俊晩(カン・ジュンマン)・全北大学新聞放送学部教授)
”と報道した(リンクはこちら)。

 古い記事を持ち出して恐縮であるが,まさにこれが歴史の真実だろう。
 「韓日併合が公布されたその日の鐘路通り(訳注:京城の中心街)の朝鮮人らはまるで「何事も無かったかのように」賑やかに商売をしたり飲食する「日常」を失わなかった」,「当の朝鮮人たちは楽しそうにしており、高位の官吏らは毎日、新時代での栄爵を得ようと嬉々として奔走するだけだった」あるいは「実際、8月29日当日は意外に平穏で、反対デモも全く無かったという。」とあるが,実際にはこの程度のものではない。
 「金 完燮」の「親日派のための弁明」には,
一進会は一九○五年一一月一七日に乙巳保護条約を締結するとの日本政府の方針が知らされると「韓国の外交権を日本に委任せよ」という内容の宣言書を発表し、大々的なデモを組織して、乙巳保護条約の締結を支援した。この年、いよいよ乙巳保護条約が締結され、翌一九○六年三月二日、伊藤博文が朝鮮の初代統監に赴任した日、一進会は南大門に「歓迎」と記した巨大な垂れ幕を掲げて伊藤の赴任を歓迎した。」(213頁)
とある。 
 また在特会の桜井会長の著書である「嫌韓流 実践ハンドブック 反日妄言撃退マニュアル」には、日韓併合を祝う当時のソウルの写真が掲載されている。同じ写真が「日本と朝鮮の因縁の歴史」というサイトに掲載されているので、それを閲覧されたい(リンクはこちら)。
 ひょっとしたら上記の「親日派のための弁明」の中の「一進会は南大門に「歓迎」と記した巨大な垂れ幕を掲げて伊藤の赴任を歓迎した。」という写真と同じものかもしれないが,いずれにせよどう贔屓目に見ても国を奪われたなどという緊張感に満ちた雰囲気ではない。
 南朝鮮がこういう事実を認めることから,日韓関係の正常化は始まると言える。
  1. 2013/04/13(土) 20:27:36|
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