金子吉晴(維新政党新風)    行動保守の選挙担当として維新政党・新風に籍を置き真の戦後レジームからの脱却に邁進しています。

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"日本が『サンフランシスコ講和条約』を持ち出すのは釣魚島占領のため" 支那人が台湾を実効支配し始めて500年も経っていないのに尖閣諸島が支那固有の領土とはお笑い草!!

 12月3日の中国網日本語版(チャイナネット)は,”日本が『サンフランシスコ講和条約』を持ち出すのは釣魚島占領のため
 中国社会科学院日本研究所の高洪副所長はこのほど、人民網の強国フォーラムのインタビューに応じ、「日本が『サンフランシスコ講和条約』を持ち出し『カイロ宣言』を否定するのは釣魚島を占領するためである」と述べた。
 高洪氏は、『サンフランシスコ講和条約』は第二次世界大戦の48カ国の戦勝国が1951年に米国のサンフランシスコで日本と調印した一方的な講和条約であると指摘。これは米国が主導し、戦争の当事国である中国が参加せず、ソ連などの国もサインしないで結ばれたものであり、中国政府はサインも同意もしていない。
 日米が1971年に調印した沖縄返還協定などの日本が「根拠」とするものについては、日米が密かに交わした争議のある第三国の領土に関する協定であり、完全に違法であり、でたらめ、無効である。
 高洪氏は、「日本は『サンフランシスコ講和条約』を持ち出し、同条約が『カイロ宣言』より法的効力があると示そうとしている。日本が盗み取った中国領土を返還するという法的根拠を否定するのは、釣魚島を占領するためである」と強調した。
”と報道した(リンクはこちら)。

 この「カイロ宣言」とは、「同盟国の目的は、・・・満洲、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還することにある。」と規定するものである(リンクはこちら)。
 そしてこの「日本は『サンフランシスコ講和条約』を持ち出し、同条約が『カイロ宣言』より法的効力があると示そうとしている」という点については、時期は前後するが、次のような反論がある。

 11月13日の産経新聞は,”【正論】中国がつく尖閣「棚上げ」の嘘 大阪大学大学院教授・坂元一哉
 中国政府は、尖閣諸島は日本が日清戦争で中国から盗んだ島だと主張する。
 そしてその主張を前提に、そういうものを返すよう要求した第二次世界大戦中のカイロ宣言、そしてそのカイロ宣言の実行を求めたポツダム宣言に従って、中国に返還すべきである、という理屈を立てている。
 だが尖閣は、日本が中国から盗んだ島ではない。それが明らかだからこそ、サンフランシスコ平和条約の領土処理で尖閣諸島は、ポツダム宣言にいうところの、連合国が決定する「諸小島」の一つとして、日本に主権が残ったわけである。
 中国はサンフランシスコ平和条約に署名していない。中国政府がこの平和条約を認めない、と主張することは可能かもしれない。
 だが、その場合、中国政府はいつ、戦時中のカイロ宣言とポツダム宣言に基づいて、尖閣諸島を中国に返せ、と日本に要求することができただろうか。
 それは中国が日本との間で戦後処理を行い、国交を回復した72年しかあるまい。その時に要求しなかった(問題にしなかった)ものを、いまさら要求されても(問題にされても)、まじめに聞く耳を持ちようがない。
”と報道した(リンクはこちら)。

 「だが尖閣は、日本が中国から盗んだ島ではない」とあるように、「尖閣諸島」は「カイロ宣言」の対象には含まれない。
 この点については7月11日のエントリーで、
なぜなら「尖閣諸島(沖縄県石垣市)」は「台湾などの島嶼」ではなく,近代の戦争とは無関係の我が国固有の領土だからである。その前提としては有史以来,「尖閣諸島(沖縄県石垣市)」が支那の実効支配を受けたことがないことがある。
 琉球王国が本土と支那の両方の服属下にあったことをその根拠に上げるなら,朝鮮半島全体が支那領と言うことになるだろう。

と書いたとおりである(リンクはこちら)。

 逆に支那の側の台湾に対する実効支配についてはどうだったのか。
 これについてはWikiの「台湾の歴史」には、
台湾が何時の時代に中国の版図に編入されたかについては諸説があるが、澎湖諸島と台湾本島を区分して記述すれば、澎湖諸島は元代に巡検司が設置され福建省泉州府に隷属したというのが確実な記録であり、台湾本島は近域を航行する船舶の一時的な寄港地、あるいは倭寇の根拠地としての位置づけが明代まで続き、オランダ占領に続く鄭成功勢力を駆逐した清代になり正式に中国版図に組み入れられたと見なされている。
台湾島の領有を確認できる史上初めての勢力は、17世紀初頭に成立したオランダの東インド会社である。東インド会社はまず明朝領有下の澎湖諸島を占領した後、1624年に台湾島の大員(現在の台南市周辺)を中心とした地域を制圧して要塞を築いた。
1644年、李自成の反乱によって明朝が滅亡し、混乱状況にあった中国に満州族の王朝である清が進出して来た。これに対し、明朝の皇族・遺臣達は、「反清復明」を掲げて南明朝を興し、清朝への反攻を繰り返したが、力及ばず1661年に滅亡させられた。そのために、「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保するために台湾のオランダ・東インド会社を攻撃し、1662年に東インド会社を台湾から駆逐することに成功した。台湾の漢民族政権による統治は、この鄭成功の政権が史上初めてである。
1871年宮古島島民遭難事件が起こり、首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である。日本政府は清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民(国家統治の及ばない者)」という返事があり、そのために1874年には日本による台湾出兵(牡丹社事件)が行なわれ、1884年-1985年の清仏戦争の際にはフランスの艦隊が台湾北部への攻略を謀った。
とある(リンクはこちら)。

 支那人が台湾を実効支配するようになってからまだ500年も経っていない。
 しかも1871年に至ってもまだ「化外の民(国家統治の及ばない者)」だと言っているのである。
 これで尖閣諸島が支那固有の領土とはお笑い草である。
  1. 2013/12/11(水) 22:50:01|
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