金子吉晴(維新政党新風)    行動保守の選挙担当として維新政党・新風に籍を置き真の戦後レジームからの脱却に邁進しています。

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"靖国参拝「致命的打撃」=日本が「尖閣盗んだ」-中国大使" このようなこじつけとしか思えない主張をする国と国交を継続する意味が一体どれほどあるか!!

 1月20日の時事通信は,”靖国参拝「致命的打撃」=日本が「尖閣盗んだ」-中国大使
 中国の程永華駐日大使は20日、最近の日中関係について「安倍晋三首相の(昨年12月の)靖国神社参拝で一気に壊れた」と厳しい認識を示した。都内の大学で行われた藤崎一郎前駐米大使との対談で語った。
 程大使はまた、中国が領有権を主張する沖縄県・尖閣諸島について「中国は明の時代から管理していたが、1895年に日清戦争で清が敗れそうになった時に日本が盗み取った」と批判。中国が1970年代まで領有権を主張しなかったとの日本側の指摘は「大きな誤解だ」と反論した。
”と報道した(リンクはこちら)。

 「中国は明の時代から管理していた」とあるが、これの具体的な内容を示すのが次の報道である。

 2012年7月28日の支那・人民網日本語版は,”釣魚島問題で歴史的根拠がないのは一体どの国か
 「産経新聞」は17日の記事で2つの論拠を挙げ、中国が釣魚島(日本名・尖閣諸島魚釣島)を「明代から中国固有の領土」と主張していることについて、「根拠が大きく崩れた」と批判した。しかし、論拠として挙げられたのは2つの「詭弁」であり、そのうちの1つ--いわゆる「新発見」とされている論拠--は、中国の古代文献を曲解したものだ。釣魚島問題で歴史的根拠がないのは一体どちらだろう?事実を正確に理解してもらうべく、この文章を発表する。
(一)
 日本側がよく使う「詭弁」の1つに、「中国は釣魚島付近の石油資源が明らかになった1970年ごろから領有権を主張し始めた」というものがあるが、これは全く歴史を顧みない、是非を転倒させる言い方だ。
 中国は1372年に琉球国王を冊封してから1894年の日清戦争にいたるまで、500年あまりにわたって釣魚島の主権を有し、管轄、航海利用、漁獲作業、海防・巡航を行ってきた。清代以降、釣魚島は行政上台湾の附属島嶼となったため、中国は日清戦争に負けた後、日本による台湾殖民統治期間(1895年-1945年)は日本側に釣魚島問題を提起することはできなかった。
(二)
 もう1つの「詭弁」として、日本はよく「釣魚島が日本領土であるという動かぬ証拠があり、中国も認めている」としている。
 今の沖縄県が実は日本固有の領土ではない点も指摘する必要がある。琉球王国は1879年に日本に併合される前、約500年の歴史を持っていた。琉球王国は36島を有したが、その中に釣魚島列島は含まれていない。
 琉球の学者・程順は1708年、「指南広義」という本の中で姑米山(久米島)を「琉球西南方界上鎮山」と記し、釣魚島・黄尾嶼・赤尾嶼は琉球境内に組み入れていない。
 琉球王国が中国によって興り、日本によって滅亡させられた歴史を持つことは否定できない事実だ。明の洪武5年(1372年)、明帝・朱元璋は楊載を琉球国に派遣し、琉球国王・察度を冊封した。同年、察度は弟の泰期を使者とし、楊載とともに北京に赴かせ、貢ぎ物を明朝に献上した。
 中国と琉球はこれより、冊封国と朝貢国の関係を結んだが、その前提は双方が互いの海上境界線を認めるというものだった。双方に残る大量の古代文献から、当時の双方の海上境界線が、中国釣魚島列島の最東端・赤尾嶼と、琉球の最西端・久米島間の間にある琉球海溝であったことが証明されている。
(三)
 「産経新聞」の記事は、まるで鬼の首を取ったように日本人学者によるいわゆる「新発見」を紹介しているが、これも全く根拠にならない。
 この「新発見」とは、中国の明朝から1561年に琉球に派遣された冊封使・郭汝霖が皇帝に提出した上奏文「石泉山房文集」である。
 記事では、「釣魚島が琉球に属すことを認める明朝の文献が見つかったのはこれが初めてであり、中国の主張に歴史的根拠がないことがいっそう明白になった」としている。日本人学者は文献を分析し、「赤嶼(赤尾嶼)そのものが琉球人の命名した境界で、明の皇帝の使節団がそれを 正式に認めていたことになる」と指摘、さらに「中国が尖閣を領有していたとする史料がどこにもないことは判明していたが、さらに少なくとも大正島(赤尾嶼)を琉球だと認識した史料もあったことが分かり、中国の主張に歴史的根拠がないことがいっそう明白になった」としている。
 しかし、これもまた日本が中国古代文献を歪曲し、新たな証拠としているだけなのだ。
 釣魚島列島は中国が先に発見し、命名し、記載し、利用したものであり、明朝がこれを中国海防図に描き入れたことは争えない事実だ。
 明の嘉靖40年(1561年)、胡宗憲と鄭若曾が編纂した「籌海図編」の「沿海山沙図」には、釣魚嶼、黄尾山(黄尾嶼)、赤嶼(赤尾嶼)が、浙江省と福建省に対する倭寇の攻撃を防ぐための前線として明確に描き込まれている。「皇朝中外壹統輿図(1863年)」の「大清壹統輿図」でも、台湾の東北に赤尾嶼を含む釣魚島列島が描かれている。
 郭汝霖といえば、最も良く引用されるのが、琉球から帰国後の1562年に書いた報告書「琉球奉使録(使琉球録)」だ。郭汝霖はこの中で、「閏五月一日に釣魚嶼を通り過ぎ、三日には赤嶼についた。赤嶼は琉球との境にあたる山である。さらに一日進めば、姑米山(久米島)が見えてくる--六日午刻、土納己山が見えた。土納己山は琉球の案山である」としている。
 この「案山」というのは、古代の漢語で「境界の山」の意味を持つ。「土納己山」、すなわち琉球の渡名喜島は、久米島からそれほど遠くない東にある。ここからも、当時中国の冊封使が赤尾嶼を中国と琉球の境とし、渡名喜島を琉球の辺境にある島嶼の1つと認識していたことがわかる。
 郭汝霖は同時期に書いたほかの文献でも「渉琉球境界地、名赤嶼」、「赤嶼者、界琉球地方山也」などと書いているが、この2つの文はいずれも、「赤尾嶼は琉球との境にある中国の島嶼であり、琉球の島嶼ではない」という意味だ。
(文:清華大学当代国際関係研究院 劉江永副院長、編集SN)
”と報道した(リンクはこちら)。

 「中国は1372年に琉球国王を冊封してから1894年の日清戦争にいたるまで、500年あまりにわたって釣魚島の主権を有し、管轄、航海利用、漁獲作業、海防・巡航を行ってきた」とあるが、その具体的な内容はどうか。
 確かに「明の嘉靖40年(1561年)、胡宗憲と鄭若曾が編纂した「籌海図編」の「沿海山沙図」には、釣魚嶼、黄尾山(黄尾嶼)、赤嶼(赤尾嶼)が、浙江省と福建省に対する倭寇の攻撃を防ぐための前線として明確に描き込まれている。「皇朝中外壹統輿図(1863年)」の「大清壹統輿図」でも、台湾の東北に赤尾嶼を含む釣魚島列島が描かれている。」とあるから、「記載」していたことは事実だろう。
 しかしそのことは「釣魚島の主権を有し、管轄、航海利用、漁獲作業、海防・巡航を行ってきた」には全くならない。

 むしろ彼らの主張の中心は、「琉球の学者・程順は1708年、「指南広義」という本の中で姑米山(久米島)を「琉球西南方界上鎮山」と記し、釣魚島・黄尾嶼・赤尾嶼は琉球境内に組み入れていない。」あるいは「ここからも、当時中国の冊封使が赤尾嶼を中国と琉球の境とし、渡名喜島を琉球の辺境にある島嶼の1つと認識していたことがわかる」ということから、尖閣諸島は「琉球」の領土ではなかったということにあるだろう。
 しかしこのことによっても「釣魚島の主権を有し、管轄、航海利用、漁獲作業、海防・巡航を行ってきた」ということには全くならない。

 ましてやこの後の清代以降には、「琉球」を巡る我が国と支那の関係は劇的に変化した。すなわち我が国の方では「琉球」が薩摩藩の支配下に入ったが、これは単に我が国内である地域がある地域の領地なったに過ぎない。これに対し支那の方では漢民族の明朝が満州民族の清朝に代わったのだから、国自体が代わったと言える。
 したがって明代と清代とでは我が国と支那との関係は一旦ご破算になったと捉えられ、それまでの関係は全く実効支配の証拠にはならないと言うべきである。

 まあとにかく大学教授がこのようなこじつけとしか思えないような主張をする国と国交を継続する意味が一体どれほどあるだろうか。
  1. 2014/02/11(火) 22:04:44|
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