金子吉晴(維新政党新風)    行動保守の選挙担当として維新政党・新風に籍を置き真の戦後レジームからの脱却に邁進しています。

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"華北から上海へ飛ぶ戦火 日本人への暴虐に世論が沸騰した" 第2次上海事変は蒋介石が外国介入期待で行った意図的な先制攻撃!!

 3月2日の産経新聞は,”【子供たちに伝えたい日本人の近現代史(47)】華北から上海へ飛ぶ戦火 日本人への暴虐に世論が沸騰した
 盧溝橋事件が起きた昭和12(1937)年7月当時、北京(当時は北平)市街の東にある通州という町に、約400人の日本人が住んでいた。
 前回書いたように、通州には日本軍と中国軍との「緩衝」として日本が親日家の殷汝耕に組織させた冀東(河北省東部)防共自治政府があった。軍隊は約100人の日本の守備隊と国民党の第二十九軍、それに冀東防共政府の保安隊約3千人が駐留していた。
 ところが盧溝橋事件から22日後の7月29日、その保安隊が日本人や日本軍を襲い、二百数十人を殺害するという残虐な事件が起きた。「通州事件」である。
 しかもその暴虐ぶりが日本に伝えられると、世論は「暴支膺懲」(暴れる支那をこらしめる)に染まり、軍内部でも強硬派が勢いを増す。一方で中国軍の反日攻勢も収まらず、ついに国際都市、上海に飛び火した。
 通州事件から11日後の8月9日、上海の虹橋飛行場付近で、日本の海軍上海陸戦隊、大山勇夫中尉の車が中国の保安隊に銃弾を浴びせられ、大山中尉と運転手が死亡した。
 海軍は上海在住の日本人を保護するため11日、佐世保から軍艦21隻と3千人の特別陸戦隊を派遣し上陸させた。しかし中国軍はこの時点で15万人が上海に結集しつつあると言われ、とても陸戦隊だけでは対抗できない。
 このため政府は13日の閣議で、陸軍の内地2個師団を上海派遣軍として向かわせることを決める。司令官には、予備役に編入、つまりいったん現役を退いていた松井石根大将が命じられた。
 さらにこの日、首相の近衛文麿は「支那軍の暴虐を膺懲し、もって南京政府の反省を促す」との声明を発表、全面的な日中戦争(当時の日本側呼称は支那事変)に突入していく。
 8月28日、上海派遣軍は長江河口域の呉淞付近から上陸、中国軍と激しい戦闘を繰り返しながら10月下旬までには、上海北西部をほぼ手中に収め、市内に上海派遣軍の司令部を設けた。
”と報道した(リンクはこちら)。

 上記の文章には重要な部分が抜けている。
 それは「通州事件から11日後の8月9日、上海の虹橋飛行場付近で、日本の海軍上海陸戦隊、大山勇夫中尉の車が中国の保安隊に銃弾を浴びせられ、大山中尉と運転手が死亡した。」の後には何の戦闘の記載もなく、次には「8月28日、上海派遣軍は長江河口域の呉淞付近から上陸、中国軍と激しい戦闘を繰り返しながら10月下旬までには、上海北西部をほぼ手中に収め、市内に上海派遣軍の司令部を設けた。」とまるで日本が先制攻撃をしたかのように書いてある点である。
 
 しかし実際にはそうではない。「事評論家=佐藤守のブログ日記」の2007年3月31日のエントリーには次のとおりある(リンクはこちら)。

ちなみにその惨状を物語る「面白い資料」が手元にある。「シブミ」という早川書房発行の「小説」で、作者は「トレヴェニアン」という外人、英文学翻訳者の菊池光氏が翻訳したものである。その上巻の「上海――193?年」という節に、岸川孝将軍という人物が登場する1937年当時の上海の情景を詳細に描いている箇所がある。

「1937年7月7日に、『ノース・チャイナ・デイリイ・ニューズ』が、北京の近くの盧溝橋で日本軍と中国軍が銃撃を交わした、と報じた。
 バンドでは、上海クラブにいたイギリスの経営者達が、東洋人同士の無意味な闘争におけるこの出来事は、迅速に手を打たないと収集不能になる可能性がある、ということで意見が一致した。彼らは、自分達の商館を迷惑な戦争から守るために、北へ急行して上海に直接影響の無い地域で日本軍と交戦してもらいたいと蒋介石総統に伝えた。
 しかし、総統は、共同租界を危険に晒すことによって自分の側に有利な外国の介入が行われることを期待して、上海で日本軍を迎撃することにした。
 それがうまくいかないと判ると、彼は、共同租界の日本商館や民間人に対する組織的迫害を始め、ついに8月9日、車で郊外の日本の紡績工場の検査に向かっていた大山勇夫中尉と運転手の斉藤与蔵一等水兵が中国兵士に停止を命ぜられた。蜂の巣のように撃たれ性器を切り取られた二人の死体がモニュメント・ロードで見つかった。
 これに対応して日本の軍艦が黄浦江を上ってきた。蘇州川対岸の閘北の日本租界を守るために1千人の陸戦隊が上陸した。彼らの前面にはバリケイドを築き塹壕を掘った1万の中国精鋭部隊がいた・・・・・・。
 8月14日にアメリカ製ノースロップ機に乗った中国軍パイロット(注:アメリカ人義勇軍パイロットだったのかもしれない)達が上海を盲爆した。高性能爆弾の一弾がパレス・ホテルの屋根を貫いた。べつの一弾がカフェ・ホテルの表の路上で爆発した。729名が死に、861名が負傷した。31分後にべつの中国機が女性と子供の避難所になっていた大世界娯楽センターを爆撃した。1012名が死に、1007名が負傷した・・・」

 この小説の元になっているのは当時の<英字新聞資料>であろうと思われ、実に正確で貴重な記録である。


 死傷者の数が「アメリカ製ノースロップ機」という戦闘機の攻撃の割には多い気がするが、大まかな事実は「実に正確で貴重な記録」と言えるだろう。
 要するに第2次上海事変は「蒋介石総統」が「自分の側に有利な外国の介入が行われることを期待して」行った意図的な先制攻撃である。

 我が国の保守論客の中には、大東亜戦争は自衛戦争あるいは植民地解放戦争であるが、「支那事変」は侵略行動であるとする人達がいる。
 しかし当方はそのような考え方には反対である。上記の経過を考慮に入れれば、「支那事変」は明らかに単なる第2次上海事変の懲罰行動である。「共同租界」攻撃という違法行為の処罰と賠償が目的であり、それが実施されたなら1~2年の間には終了したであろう。
 しかしそれが不必要に長引いたのは相手の支那の側がヒット・アンド・アウェイの戦術を駆使したからである。
 そしてそのような違法行為を実行した支那を援助したのが米英であるから、大東亜戦争もその懲罰行動の一環でしかない。
  1. 2014/03/02(日) 23:01:54|
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