金子吉晴(維新政党新風)    行動保守の選挙担当として維新政党・新風に籍を置き真の戦後レジームからの脱却に邁進しています。

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"集団的自衛権で高村氏 「法制局 言い過ぎ」 中大「産経寄付講座」" 現状でも可能な防衛努力の怠慢に現憲法を口実にするな!!

 4月24日の産経新聞は,”集団的自衛権で高村氏 「法制局 言い過ぎ」 中大「産経寄付講座」
 自民党の高村正彦副総裁は23日、東京都八王子市の中央大学で行われた「産経新聞寄付講座」で講演し、集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈の変更について「内閣法制局が『集団的自衛権は一切合切できない』と言ったのは安全保障の専門家でない悲しさで、言い過ぎだ」と述べ、限定的ならば集団的自衛権の行使は認められるとの考えを重ねて示した。
 また、戦力不保持と国の交戦権を否定した憲法9条2項について「抑止力を一切否定しており、まずい」とも語り、将来の憲法改正の必要性も訴えた。
”と報道した(リンクはこちら)。

 当方は余り日米安保条約を当てにしていないので、「限定的ならば集団的自衛権の行使は認められるとの考え」の部分は全く関心がない。
 そうではなくこの報道で問題にしたいのは最後の、「また、戦力不保持と国の交戦権を否定した憲法9条2項について「抑止力を一切否定しており、まずい」とも語り、将来の憲法改正の必要性も訴えた。」の部分である。
 これをもう少し法理論的に述べているのが次の報道である。

 平成25年12月7日の産経新聞は,”【中高生のための国民の憲法講座】第23講 なぜ憲法に軍隊明記が必要か 百地章先生
 安倍首相は現在の自衛隊は国際法上は「軍隊」とされながら、国内では「軍隊ではない」とされており、この矛盾を解消する必要がある、とも言っています。まさにそのとおりです。
 しかし、なぜ自衛隊を「軍隊」としなければならないのか。より本質的な理由は、次の点にあります。つまり戦力の不保持を定めた憲法第9条のもとでは、法制度上、自衛隊は軍隊ではなく、警察組織にすぎないとされているからです。
 それゆえ、もし自衛隊が法制度上、軍隊であれば、領海を侵犯した軍艦や潜水艦に対しては、国際法に従って、まず「領海からの退去」を命じ、それに従わない時は「警告射撃」を行うことができます。さらに、相手側船舶を「撃沈」することさえ可能です。
 ところが、自衛隊は「軍隊」ではありませんから、自衛隊法に定められた「防衛出動」の場合を除き、武力行使はできません。また、自衛隊法には領域警備規定がありませんから、もし中国の武装漁民が尖閣諸島に強行上陸しても、防ぎようがないのです。相手が発砲してくれば、正当防衛として「武器使用」ができますが、場合により過剰防衛で起訴されかねません。
 したがって速やかに憲法を改正して、自衛隊を「軍隊」とする必要があります。そうしなければ尖閣諸島も守れませんし、中国の軍事的脅威を前に、わが国の主権と独立を保持することは難しくなります。
”と報道した(リンクはこちら)。

 「つまり戦力の不保持を定めた憲法第9条のもとでは、法制度上、自衛隊は軍隊ではなく、警察組織にすぎないとされているからです。」とあるが、こんなことは憲法の一体どこに書かれているだろうか。
 なおこの点は昨年12月30日のエントリーでも、同趣旨の論説を引用して、問題提起したところである(リンクはこちら)。
 これらは一体正しいだろうか。当方はこれらが誤りだと考える。それは次の報道からよく分かる。

 3月24日の産経新聞は,”【正論】歪んだ「戦力」「文民」の憲法解釈 駒沢大学名誉教授・西修
 《芦田修正考慮せぬは大問題》
 憲法9条に関する政府解釈の最大の問題点は、いわゆる芦田修正を全く考慮に入れていないことにある。
 芦田修正とは、帝国議会に提出された政府案の9条2項に、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とある文言の冒頭に、「前項の目的を達するため」の字句を加えて「自衛のためならば、陸海空軍その他の戦力」の保持を可能にするというものである。昭和21年8月、芦田均を委員長とする衆議院の帝国憲法改正小委員会で決められたことから、芦田修正といわれている。
 芦田修正に対し敏感に反応したのが、日本を管理するために連合国が設けた極東委員会である。
 委員会では、芦田の意図を踏まえて真剣な討議が行われた。中国代表は21年9月21日、「修正によって、自衛のためであれば、軍隊の保持が可能になろうと考えるのが常識である」と語っている。
 カナダ代表は、「将来、陸軍大将、海軍大将その他の将官が存在するであろうことは、全く考えられ得る。全大臣がシビリアンでなければならないという規定があれば、現役の将官が大臣に任命される可能性はない」と発言した。
 《極東委員会の議論知らず》
 こうして、委員会は連合国軍総司令部(GHQ)を通じて、憲法に大臣がシビリアンでなければならないとする条項を導入するよう強く働きかけた。芦田修正で自衛の軍隊が創設される→軍人が輩出する→軍人が大臣になって政治をコントロールする(ミリタリー・コントロール)状況が懸念される→それを阻止するにはシビリアン大臣制の条項を設けなければならない-という思考回路である。
 そうした背景で半ば強制的に押し込まれたのが66条2項(「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」)だ。(にし おさむ)
”と報道した(リンクはこちら)。

 「こうして、委員会は連合国軍総司令部(GHQ)を通じて、憲法に大臣がシビリアンでなければならないとする条項を導入するよう強く働きかけた。」とあるから、「連合国軍総司令部(GHQ)」も「芦田修正で自衛の軍隊が創設される」は認めていたのである。
 それにも関わらずなぜ「抑止力を一切否定しており」という結論になるのか全く疑問である。

 なおこの結論の前提としては、9条1項の「国際紛争を解決する手段としては」の解釈も見ておく必要がある。これについてはWikiの「日本国憲法第9条」に次のとおりある(リンクはこちら)。

日本国憲法第9条第1項の「国際紛争を解決する手段としては」の文言の解釈については、不戦条約にある「國際紛爭解決ノ爲」の文言との関係をどうみるべきかという観点から学説は分かれており、憲法第9条全体の解釈として一切の戦争を放棄しているとするのであれば「国際紛争を解決する手段としては」の文言についても不戦条約等の国際法上の用例に拘泥すべきでないとする説と憲法9条は平和という国際関係と密接な関連性を有するもので「国際紛争を解決する手段としては」の文言についても不戦条約等の国際法上の用例を尊重すべきであるとする説が対立している。

 当方としては当然、後者の説に立つものである。これについては次のとおりある。

不戦条約1条や国際連合憲章2条3項などでの国際法上の用例に従った解釈をすべきであるとして、第1項の「国際紛争を解決する手段としては」とは侵略戦争の放棄を意味しているとする説(広義の限定放棄説=一項における限定放棄説)
 この見解は第2項前段の「前項の目的を達するため」の解釈によって、さらに第2項によってすべての戦争が放棄されているとみる遂行不能説(二項全面放棄説)と第2項においても自衛戦争は放棄されていないとみる限定放棄説(狭義の限定放棄説)に分かれる。


 また上記の報道に関連して言及すべきは、「国の交戦権」の解釈である。
 「自民党の高村正彦副総裁」は単純にこれを国の交戦する権利と解釈しているようである。
 しかし次の報道からすればこれは間違いであると分かる。

 平成25年11月2日の産経新聞は,”【中高生のための国民の憲法講座】第18講 憲法9条 総司令部案の真相 西修先生
 憲法9条を正しく解釈するには、同条がどのような経緯で成立したか、その真相を理解することが肝要です。以下でポイントを書きとどめることにしましょう。
 9条の原点は、昭和21(1946)年2月3日、マッカーサー元帥によって示された『マッカーサー・ノート』の第二原則にあります。次のようです。
 「国の主権的権利としての戦争は、廃止する。日本は、紛争解決の手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてさえも、戦争を放棄する。日本は、その防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な意思に委ねる。いかなる日本の陸海空軍も決して認められず、いかなる交戦者の権利も日本軍隊に決して与えられない」
 総司令部案の変更点
 ところが、連合国軍総司令部内で検討された結果、2月13日に日本側に示された『総司令部案』は、次のようになっていました。
 「国権の発動たる戦争は、廃止する。武力による威嚇または武力の行使は、他国間との紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。陸軍、海軍、空軍その他の戦力は、決して認められることはなく、また交戦権も、国家に対して与えられることはない」
 ケーディス氏の証言
 どこが違うでしょう。一番大きな違いは、「自己の安全を保持するための手段としての戦争」の部分がすっぽり削られ、新しく「武力による威嚇または武力の行使」が加えられていることです。このように変えたのは、総司令部民政局次長で『総司令部案』をとりまとめたチャールズ・ケーディス大佐です。
 私がマサチューセッツ州郊外のケーディス氏宅を訪れたのは、昭和59(1984)年11月のことです。ケーディス氏は、私に語ってくれました。「マッカーサー・ノートにあった『自己の安全を保持するための手段としての戦争』の文言を削除したのは、それが非現実的だと考えたからです。また当時、国連憲章で『武力による威嚇または武力の行使』(2条4項)の限定的な放棄が規定されていたので、加えたのです」
 こうして、この段階で「非現実的」な内容(自衛戦争も不可能)から、「現実的」な内容(自衛のための武力行使は可能)に変更されたのです。
”と報道した(リンクはこちら)。

 「いかなる日本の陸海空軍も決して認められず、いかなる交戦者の権利も日本軍隊に決して与えられない」とあるように、交戦する権利ではなく「交戦者の権利」である。
 要するに交戦者となること、つまり交戦する権利は決して否定されていないということである。

 もちろんこのような分かりにくい解釈論を振り回すよりひと思いに「憲法改正」をした方が望ましいことは望ましいのであるが、言っておきたいことは現状でも可能な防衛努力の怠慢について現憲法を口実にしてはならないということである。
  1. 2014/04/28(月) 20:21:43|
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