金子吉晴(維新政党新風)    行動保守の選挙担当として維新政党・新風に籍を置き真の戦後レジームからの脱却に邁進しています。

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"琉球「日本固有の領土と言えず」中国・環球時報が論文" チベット侵略の支那が「琉球諸島は日本固有の領土とは言えない」とは笑止千万!!

 11月16日の産経新聞は,”琉球「日本固有の領土と言えず」中国・環球時報が論文 「奄美・琉球」の世界遺産登録で世論工作
 中国共産党機関紙、人民日報系の環球時報は16日、日本が「奄美・琉球」(鹿児島、沖縄)の世界自然遺産登録を目指していることに関連し「琉球諸島は日本固有の領土とは言えない」とする専門家の論文を掲載。
 論文は、19世紀後半に明治政府が琉球を併合した「琉球処分」に関し「琉球は独立国で、中国が長く宗主国だったが、日本に占領された」と強調。カイロ宣言やポツダム宣言は、強引に占領した土地から出て行くよう求めているとして「日本は琉球諸島を領有できない」と訴えた。「日本が琉球諸島を自国の領土にする目的で世界遺産登録を利用するなら、戦後の国際秩序への挑戦だ」と決め付けた。
”と報道した(リンクはこちら)。

 馬鹿馬鹿しい主張であるが、知識整理のために真面目に反論してみたい。

 まず「論文は、19世紀後半に明治政府が琉球を併合した「琉球処分」に関し「琉球は独立国で、中国が長く宗主国だったが、日本に占領された」と強調。」とあるが、Wikiの「琉球征伐」には次のとおりある(リンクはこちら)。

琉球征伐は、薩摩藩が1609年に行った、琉球王国(中山)に対する軍事行動を指す。
1611年、尚寧と三司官は、「琉球は古来島津氏の附庸国である」と述べた起請文を提出した。また、琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。こうして薩摩藩は第二尚氏を存続させながら、那覇に在番奉行所を置いて琉球を間接支配するようになる。

 したがってすでに「1611年」には「琉球」は独立した地域としての実体を失っていたと言えよう。

 またそのことはさておいても、「琉球は独立国で、中国が長く宗主国だったが、日本に占領された」とあるのは事実と全く異なる。

 まず「琉球」が独自に支那と朝貢貿易をしていたのは事実であるが、「独立国」とまでは言えない。
 別に我が国だけに限らず、近代以前において中央集権的中央政府が存在することはまれであり、各地方が独自に外国と交易することはよくあることであるが、各地方が独立国であったわけではない。

 ましてや「中国が長く宗主国だった」は全くの詭弁である。
 支那が「宗主国」であるためには支那が「琉球」を政治的に支配していなけれはならないが、そんな事実はない。

 また「日本に占領された」というのもおかしい。そうではなく単に中央政府によって統一される最初の過程だっただけのことである。

 言い換えれば、その地域が「独立国」かどうかを決めるメルクマールは、その地域の住民が異民族かどうかである。
 その点では「琉球」人は完全に日本人である。
 Wikiの「琉球民族」には次のとおりある(リンクはこちら)。

九州以北の本土の住民とは同じ祖先をもつことが最近の遺伝子の研究で明らかになっている。また、中国南部及び東南アジアの集団とは地理的には近く昔から活発な交易がおこなわれていたため九州以北の日本本土住民と違いその影響があったと考えられていたが、遺伝子の研究から中国や台湾の集団とはかなり離れていることが判明している。

 逆に支那には異民族の住む地域は沢山あるので、「琉球は独立国で、中国が長く宗主国だったが、日本に占領された」から「琉球諸島は日本固有の領土とは言えない」という彼らの論法では、支那には支那「固有の領土とは言えない」地域が沢山存在することになる。

 第1の例は「台湾」である。
 Wikiの「台湾の歴史」には次のとおりある(リンクはこちら)。

台湾島の領有を確認できる史上初めての勢力は、17世紀初頭に成立したオランダの東インド会社である。東インド会社はまず明朝領有下の澎湖諸島を占領した後、1624年に台湾島の大員(現在の台南市周辺)を中心とした地域を制圧して要塞を築いた。
 だが、台湾の東インド会社は1661年から「抗清復明」の旗印を掲げた鄭成功の攻撃を受け、翌1662年には最後の本拠地要塞であるゼーランディア城も陥落したために、進出開始から37年で台湾から全て駆逐されていった。


 「台湾」が初めて漢民族の支配に服したのはこの「1662年」である。
 しかも近代においてもどうだったのか。

1871年、宮古島島民遭難事件が起こった。これは、宮古、八重山から首里王府に年貢を納めて帰途についた船4隻のうち、宮古の船の1隻が、台湾近海で遭難し、台湾上陸後に山中をさまよった者のうち54名が、台湾原住民によって殺害された事件である。
 日本政府は清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民(国家統治の及ばない者)」という返事があり、そのために1874年には日本による台湾出兵(牡丹社事件)が行なわれ、1884年 - 1885年の清仏戦争の際にはフランスの艦隊が台湾北部への攻略を謀った。


 「1874年」に至っても「化外の民(国家統治の及ばない者)」と言っているのだから、「台湾」は支那「固有の領土」ではない。

 第2の例は、「チベット」である。こちらはもっと端的である。
 Wikiの「チベット」には次のとおりある(リンクはこちら)。

「人民解放軍」(=中国共産党の軍隊)のチベット侵入以前、チベットの国土のうち、チベット政府「ガンデンポタン」が実行支配していたのはガリ地方・ツァン地方・ウー地方・カム地方の西部・チャンタン高原などであり、アムド地方の全域およびカム地方の東部は中華民国の地方政権の支配下にあった(アムド地方は青海省および甘粛省の一部、カム地方の東部は西康省および雲南省の一部などに分割されていた。)。
 1949年、国共内戦で中華民国に勝利した中国共産党が中国を掌握する。中華民国国民党政府がアムド地方、カム地方の北部・東部に設置していた青海省、西康省等が中華人民共和国の支配下に入る。チベット政府は中国政府とつながりのある全ての中国人を国外追放し、国民党と共産党の双方から非難されるが、同地のチベット人、モンゴル人の抵抗が1950年代初頭まで続く。
 1949年6月11日にパンチェン・ラマ10世がパンチェン・ラマ9世の転生として中国国民党政府の承認を受け即位した。
 中国共産党政府は翌1950年1月には新中国政府によるチベット駐留を要求した。1950年6月、英国政府は庶民院で「中国のチベットに対する宗主権を認める準備は出来ている、しかしチベットは自治権を尊重されていることだけは理解してほしい」表明したが、1950年10月、中国人民解放軍は「西蔵和平解放」と称して、ダライラマ政権が実効支配していたチベットのカムド地方の西部に侵攻し、チャムドを占領。ドカム総督(ド・チー)のラル・ケサンワンドゥ、ガプー・ガワンジグメらが捕虜となる(中国名「昌都戦役」)。
 1951年、中国人民解放軍が、新疆方面、青海方面、チャムドの3方面からラサに向けて進軍、無血入城し、これによりチベット全土を制圧する。


 この「1950年10月」以降の支那の行為こそ「侵略」以外の何物でもなく、その支那が「琉球諸島は日本固有の領土とは言えない」と嘯くのだから、笑止千万である。
  1. 2016/11/21(月) 21:47:40|
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