金子吉晴(維新政党新風)    行動保守の選挙担当として維新政党・新風に籍を置き真の戦後レジームからの脱却に邁進しています。

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"韓国・霊岩の中学生、岩千代田中で交流" 「千字文」については古事記の編纂者の記憶違いだろうから、その内容から「漢字を伝えた」と解釈するのは明らかに間違い!!

 11月26日の佐賀新聞は,”韓国・霊岩の中学生、岩千代田中で交流
 日本に漢字を伝えたとされる王仁博士が縁で、神埼市の神埼中と千代田中が韓国霊岩(ヨンアン)郡にある中学校と姉妹校提携を結んだ。両校の生徒が行き来しながら交流を深め、異文化理解につなげる。このほど、韓国の生徒が神埼市を訪れ、文化交流や授業体験を行った。
 市内の竹原地区に王仁博士を祭ったといわれる神社があり、博士の出身地の霊岩郡と神埼市はかねてから交流があった。千代田中と霊岩郡の三湖西中、神埼中と霊岩郡の朗州中がそれぞれ姉妹校になった。神埼市の両校は来年、霊岩郡の姉妹校を訪問する。
”と報道した(リンクはこちら)。


 「日本に漢字を伝えたとされる王仁博士」とあるのは、当方は記紀の解釈がおかしいと考えている。
 Wikiの「王仁博士」によれば、それぞれの記事は次のとおりである(リンクはこちら)。

『日本書紀』巻第十(応神紀)
原文現代語訳
十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直岐、貢良馬二匹。即養於輕阪上?。因以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處曰?阪也。阿直岐亦能讀經典。及太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰、如勝汝博士亦有耶。對曰、有王仁者。是秀也。時遣上毛野君祖荒田別・巫別於百濟、仍?王仁也。其阿直岐者阿直岐史之始祖也。
十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子師之、習諸典籍於王仁莫不通達。所謂王仁者 是書首等始祖也。
十五年(404年)秋八月、壬戌朔の丁卯(6日)に、百済王は阿直岐を遣わして、良馬二匹を貢いだ。そこで、軽(現在の奈良県橿原市大軽町の辺り)の坂の上の厩で飼わせた。そうして阿直岐に任せて飼わせた。それゆえ、その馬を飼った所を名付けて厩坂という。阿直岐はまた、経典をよく読んだ。それで、太子菟道稚郎子は、阿直岐を師とされた。ここに、〔応神〕天皇は阿直岐に問うて言われた。「もしや、お前に勝る学者は他にいるのか」。答えて言った。「王仁という人がいます。すぐれた人です」。そこで上毛野君(かみつけのきみ)の先祖である荒田別(あらたわけ)と巫別(かんなぎわけ)を百済に遣わせ、王仁を召しださせた。その阿直岐は、阿直岐史(あちきのふびと)の始祖である。
 十六年春二月、王仁は参った。そこで菟道稚郎子は王仁を師とされ、もろもろの典籍を王仁から習われ、精通していないものは何もないようになった。いわゆる王仁は、書首(ふみのおびと)らの始祖である。

『古事記』(中巻・応神天皇二十年己酉)
原文現代語訳
又、科賜百濟國、若有賢人者、貢上。故受命以貢上人1名、和邇吉師。即論語十卷・千字文一卷、并十一卷、付是人即貢進。〔此和邇吉師者、文首等祖〕天皇はまた百済国に「もし賢人がいるのであれば、献上せよ」と仰せになった。それで、その命を受けて〔百済が〕献上した人の名は和邇吉師(わにきし)という。『論語』十巻と『千字文』一巻、合わせて十一巻を、この人に附けて献上した。〔この和邇吉師が、文首(ふみのおびと)の始祖である〕

 和邇吉師によって『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字が伝えられたとされている。『論語』は註解書を含めて10巻と考えればおかしくはないが、『千字文』は和邇吉師の生存時はまだ編集されておらず、この記述から和邇吉師の実在には疑問符がつけられることも少なくない。
 帰化した複数の帰化人学者が、『古事記』編纂の際にひとりの存在にまとめられたのではないかとされる説もある。[要出典]



 「日本書紀」には「もろもろの典籍」とはあるが、「千字文」の文字そのものがなく、「古事記」には「『論語』十巻と『千字文』一巻、合わせて十一巻を、この人に附けて献上した。」とあるが、これにも「漢字を伝えた」という趣旨はない。

 また「『千字文』は和邇吉師の生存時はまだ編集されておらず」については、Wikiの「千字文」には次のとおりある(リンクはこちら)。

『千字文』(せんじもん)は、子供に漢字を教えたり、書の手本として使うために用いられた漢文の長詩である。1000の異なった文字が使われている。
 南朝・梁 (502~549) の武帝が、文章家として有名な文官の周興嗣 (470~521) に文章を作らせたものである。


 そもそも「日本書紀」の初めに「天皇はまた百済国に「もし賢人がいるのであれば、献上せよ」と仰せになった。」とあるが、「百済国」に「天皇」の意思を伝えるためには書簡を利用しただろう。
 その書簡は一体どういう文字で書かれていたのだろうか。それは「漢字」以外には考えられないのではないか。

 またもう少し遡るなら、Wikiの「親魏倭王」には次のとおりある(リンクはこちら)。

『三国志』魏志公孫淵伝によれば、景初2年8月23日(238年)に公孫淵が司馬懿に討たれて公孫氏政権が崩壊し、魏が楽浪郡と帯方郡を占拠すると、邪馬台国の女王・卑弥呼は帯方郡への使者を送って、魏との交流が再開された(なお、呉と倭との交流については存在した可能性もあるが、『三国志』が魏を正統王朝として呉や蜀(蜀漢)への朝貢の記述や、朝貢していた諸民族(特に南方諸国)についての記事がほとんどないため、交流していたかどうかについては不明である)。
 これに対して魏の皇帝は制書を発して卑弥呼に下賜品を与えるとともに、卑弥呼を「親魏倭王」に任じてその証である金印を与えた。『魏志倭人伝』には、制書の冒頭に掲げられる「制詔(官名)(人名)」の定型の冒頭文から省略なしに全文記載されており、『魏志倭人伝』の記述は正確と推定されている。


 この「邪馬台国の女王・卑弥呼は帯方郡への使者を送って」の際も当然、書簡を持参したのではないか。これも「漢字」以外は考えられないだろう。

 「王仁博士」が「もろもろの典籍」を伝えたのは事実だろうが、「千字文」については「古事記」の編纂者の記憶違いだろうから、その内容から「漢字を伝えた」と解釈するのは明らかに間違いである。
  1. 2016/11/28(月) 21:29:48|
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