金子吉晴(維新政党新風)    行動保守の選挙担当として維新政党・新風に籍を置き真の戦後レジームからの脱却に邁進しています。

←応援クリックお願いします。

"文在寅大統領の「伽耶史復元」指示、韓国学界からは批判の声" 伽耶に言及しているのは三国遺事だけであり伽耶は創作に近いもの。正しくは加羅という任那の属国!!

 6月11日の朝鮮日報日本語版は,”文在寅大統領の「伽耶史復元」指示、韓国学界からは批判の声
 韓国の文在寅大統領が6月1日、大統領府(青瓦台)の首席・補佐官会議で「伽耶史の研究と復元」を国政課題に含めるよう指示したのに伴い、その背景や内容に関心が集まっている。
 伽耶は通常、慶尚道地方にあったと考えられているが、全羅道東部地方もかなりの期間にわたって掌握していた。紀元前1世紀ごろに文化的基盤が形成され、2世紀ごろに金海の金官伽耶率いる12の小国が連盟して「前期伽耶」を形作ったころ、その領域は現在の洛東江流域と慶尚道西部だった。しかし、西暦400年に高句麗・広開土王の攻撃で大きな打撃を受けた後、洛東江の東は新羅に吸収された。5世紀中盤以降、「後期伽耶」の新たな中心勢力として浮上した高霊の大伽耶は小白山脈を越えて領域を拡張し、鎮安・長水・任実・南原など蟾津江流域に進出した。この全羅道東部地域では、伽耶系統の古墳・土器・製鉄遺跡などが相次いで発見されている。
”と報道した(リンクはこちら)。


 我々が学生の頃には「伽耶」という言葉は全く使われていなかったが、本当にそんな国は存在したのだろうか。
 「伽耶」のWikiには次のとおりある(リンクはこちら)。

414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初見とされている[1]。
 中国梁国の時の537年に蕭子顯が編纂した史書に南齊書よると、加羅國,三韓種也。建元元年,國王荷知使來獻。詔曰:「量廣始登,遠夷洽化。加羅王荷知款關海外,奉贄東遐。可授輔國將軍、本國王。 と記録されている。
 倭国の後継国である日本で720年に成立した『日本書紀』では、加羅と任那が併記される[2]。
 中国の史書では、『宋書』で「任那、加羅」と併記される[3]。その後の『南斉書』、『梁書』、660年に成立した『翰苑』[4]、801年成立の『通典』[5]、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)も同様の併記をしている。唯一、清代に編纂された『全唐文』に於いてのみ伽耶の表記が用いられている[6]。

「三国史記」新羅本紀の奈解尼師今6年(202年)条に「伽耶」という表記があるが[7]、「三国史記」同14年(210年)条には「加羅」と表記されている[7]。」 


 また「朝鮮の歴史wiki」には次のとおりある(リンクはこちら)。

朝鮮古代史の基本史料である三国史記では、専ら加耶と記述しているが、伽耶、加良、伽落、駕洛という記述もある。同様に基本史料である三国遺事は主として伽耶であるが、呵ラ(口ヘンに羅)、駕洛という記載も見られる。日本書紀では主に加羅であるが柯羅とも記述している。梁書には伽羅、隋書には迦羅、続日本紀には賀羅という表記もある。


 これらの中で「伽耶」に言及しているのは、「同様に基本史料である三国遺事は主として伽耶であるが」だけであり、「伽耶」は創作に近いものである。
 正しくは同時代の「広開土王碑文」に「任那加羅」とあるから、要するに「加羅」という「任那」の属国である。
 韓国にとっては認めがたい事柄かも知れないが、それが歴史的事実である。
  1. 2017/06/13(火) 23:35:32|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<"【国連反日報告】「日本政府がメディアに直接・間接的に圧力」 デービッド・ケイ氏が国連人権理事会で対日報告" すべての責任はやはり河野談話を継承した安倍晋三首相にある!! | ホーム | "税収、7年ぶり前年割れ=アベノミクスにほころび-16年度" 今後は第2の矢の財政出動に依存することになるだろうが、債務残高比率低下は理屈的には最短で最初の1年だけ!!>>

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://ccp58800.blog25.fc2.com/tb.php/3153-556f0d7a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)